先ず本誌「はじめに」においてご説明させて頂いたように、営業職とは決して難しい職種ではなく、それを取り巻く環境が日々変化する為、それに対応できないゆえに難しくなるのだと述べさせて頂いたが、これから以降は過去も含めた主要な営業フィールドの変化の例を挙げ、刻々と変化する「営業職」の状況を理解して頂き、その時代やその傾向に則った対応がいかに重要かを理解して頂きたいと思う。
日本における昭和中期に端を発した高度経済成長は、正に近年の中国のような状況であったと言えよう。
昭和39年に東京オリンピックが開催され、続いて昭和45年に大阪万博が開催され、日本国民は一億総中産階級の大号令の下に多くの消費が喚起され、三種の神器や自家用車といった商品が飛ぶように売れた話は読者諸兄も聞き及びの事だと思う。
私なんかは当時の営業はさぞかし楽に楽しく仕事をこなしていたのではないだろうかと羨ましい思いである。
そういう営業職の世界にノルマという言葉が使われ出したのも、同じ時代であるが、当時は100%以上のノルマ達成者も多く、国民の収入も安定的に増え、またまた消費が喚起されるという好循環なスパイラルに入っていた大変良き時代であった。
加えて第一次ベビーブームが起き、人口も増加傾向で推移し、国内市場は活性化の一途をたどっていく事が約束され、国内需要は確かなものへと変遷するのである。
さて、当時もてはやされた三種の神器(冷蔵庫・洗濯機・テレビ)の営業スタイルを当時と現代とで比較して見る事にしよう、当時は電器メーカーの代理店・取扱店として一般店舗での販売が主流であった。
しかも、苦戦を強いられている現在と違い電器メーカーの立場が非常に強く、販売店舗に関しても地域で競争が起きないように徹底的に配慮した店舗展開計画が実施されていた。
一般店舗は各メーカーの特約販売店、販売代理店として特定のメーカー製品しか取り扱わないという形態が一般的であり、地域店舗では「町の電気屋さん」という位置付けで、主要な商店街には必ず各メーカーの店舗が存在した。現在でも細々と電気店を営む店舗も散見される。勿論、電器メーカー間の競争は存在したが、製品の相違はさほど無かった時代でもあり、競争が激化する以前に市場は成長を辿っていた為、日本国内においては、松下電器(現・パナソニック)、日立、東芝、三洋電機、三菱電機、等々の数多くの電器メーカーが共存し、共に大企業へと成長を遂げて行ったのである。
店舗の営業職(営業職と言っても世間では店員と呼称していた)は核家族化が進み増え続ける各家庭を訪問し、購買意欲の旺盛な消費者に対し、現状の生活より格段に便利になる事を訴求するだけのスタイルであり、営業の難しさはほとんど無かった時代でもある。何度も言うが、消費者は生活必需品である、三種の神器を購入するだけの購買力を十分備え付けていたゆえ、営業の難しさは非常に薄かった。
市場が成長しているお陰で、お客は決まった店舗から必要になったものから購入する傾向が強く、新規顧客を開拓する必要性もあまりないのに加え、メーカーよりテリトリー制的なビジネスモデルを求められた為、営業は御用聞き営業とも呼ばれた時代であった。
敢えて言うなら、当時は未だ割賦販売やローンといった制度が十分で無かった為、店舗独自でのかけ売り(分割払い等)を用意した事で営業職には、受注よりも集金(債権回収)の方が大変だったとの話も良く耳にした。
電器メーカーの営業職にしても、自分の担当するテリトリーの店舗に定期的に訪問し、店主との雑談の中で状況を見極め、情報収集や販売促進をする、といったいわゆるルート営業を展開していた。電器メーカー各社も各都道府県単位に営業所を設け、そこを拠点に日本国内をカバーする形態で、販売促進の為のイベントや故障対応・保守等も営業所で対応していた時代であった。
私は当時未だ小学生位の頃、家の近所に日立の営業所があり、そこの駐車場で良く遊んでいたのであるが、夕方になると営業職の乗車した車が戻ってき、営業職が両手に壊れたテレビを担いでいた姿が目に焼き付いている。彼らは担当するテリトリーに付与される販売目標も多少の出込み引っ込みを繰り返すも、総じて右肩上がりで推移した大変良き時代でもあった。
一方、現代はどうかと言えば、メーカーの立場より、強い大型小売業(以降は量販店と呼称)の台頭が顕著となり、メーカー主導の店舗は衰退を余儀なくされてしまった。
なぜ、メーカー主導が弱くなったかには様々な要因は存在するが、大きな要素のひとつとしてメーカー主導店舗では、そのメーカー製品のみ販売をしていたのに対し、量販店は、ほぼ全メーカーの製品を販売している事が最も大きな要因だったと言えるだろう。
昭和初期・中期とは違い、メーカーは他社との違いを鮮明にする為に、付随機能の追加を数多く装備し始め、消費者の嗜好をくすぐり出し、消費者は必ず比較を求める時代に突入する事となった、そのような環境変化で全てのメーカー製品が揃う量販店は非常に効率的で優位であった。
従来までの一般店舗の営業職は、消費者ニーズの劇的な変化により、最初の頃の営業方法では通じなくなりもはや勝負できなくなってしまった訳である。
しかしながら、皮肉な事には現在の量販店の前身はおなじ一般店舗であったのも事実である。量販店の勇であるヤマダ電機の創業者は一般店舗の店主として営業を展開する中で、「買い手」の要望を適格に吸い上げる努力をし、良いものを安く、また消費者に適した製品を勧める為に、一般店舗から序々に量販店へと形態を変遷させて行ったのであるが、そこに買い手よしの精神を尊重した結果の変遷であったと言える、創業者は営業として自ら手法を変え、売れる営業職を踏襲したのである。
要は「複数メーカー取扱」「低価格」「アフターフォロー」「多彩なサービス」等であったが、いわゆる「買い手よし」の要素が全て量販店に含まれていたのである。
量販店に客を奪われ、存続を危うくし始めた一般店舗の営業職(販売員)は市場変化、顧客動向、の大きな変化を素早く受け止め、一般店舗販売における限界を悟り、業態変化、ビジネスモデルの変更を成し遂げ、別の道での維持・継承を成し得た営業が、売れる営業・クールな営業職と言えよう。
私の友人のK氏はいわゆる町の電器店を営んでいたが、量販店の台頭によりビジネスが低迷する現状を打破すべく、量販店と同じように複数メーカーを取扱い、ディスカウント販売やアフターフォローも始めたが、結果は上手く運ばなかった、理由の最たるものは、しょせん個人事業主では価格面や集客力で大手量販店に太刀打ちできなかったのである。そこでK氏は原点に立ち戻り、町の電器店の存在意義を再度明確にすべく、アフターフォローに軸足を移す決断をした。要は電器製品の故障対応、IT系製品の設置、空調の整備、等のフォローであったが、そのニーズは一般家庭のみならず、多くの法人需要も招き、今では複数拠点を抱える大きな企業へと変遷した。これも環境変化を敏感に感じて、クール営業に変遷した事例である。
現代営業第一ステージの営業職(販売員)はこの業界においても非常にパフォーマンスを発揮でき、営業職の個別能力にも大きな差は感じられないステージでもあった。
現代営業第二ステージにおいてはまさに量販店の台頭が始まる時代であり、この業界の営業職にとってはターニングポイントの時代であったと言えよう。
山田電気の創業者を一営業職と捉えた場合、顧客のニーズを適確に捉え、メーカー主導の製品供給形態に限界を感じ、このままでは「買い手よし」の構図が描けないと悟るや、その形態変革に着手して行った点は素晴らしい先見性と行動力であったと言える、一方で従来の販売形態の変遷を敏感に感じ取り、業態を変更した一般店舗の店主や販売員も、優秀な営業職の一員であると言えるが、現状に甘んじて、苦労を強いられた店主や販売員は営業職失格であったと言えよう。
ポイント1 営業職は時代の流れにより変化する「買い手」の動向を常に
意識し、自ら軌道修正が必要。仮に軌道修正できる立場で
無かったなら、修正できる立場に対して働きかけをすべき
であり、それを怠ると、自身に跳ね返る事となる。