代表ブログ 売れる営業への変革「クール営業」

3.情報通信業界営業スタイル第一章 営業スタイルの変遷

最後の事例として、情報通信業界いわゆるIT業界のスタイルを見てみよう。
私が、長年従事した業界であるが、これほど変化の激しい業界は稀である。

コンピューターの歴史は、商業利用が開始された、昭和28年からである、しかも当時はかなり大型の原始的な機械であった。コンピューター界の大手老舗であるIBMも当初はタイプライターを主に扱い、本格的に商業計算機を製造販売しはじめるのは、第三世代コンピューターと呼ばれる製品が出荷される昭和40年頃の話である。ここではあまり古い話をしても営業を語る上で意味が無い為、昭和40年代~50年代の営業スタイルを述べたいと思う。

当時、日本においてはコンピューターの営業職の草分けは何と言ってもIBM営業職であった、よってIBM営業職のスタイルを見てみよう。当時主要企業がソロバンや電卓で経理計算を実施し、大勢の経理マンが日夜奮闘している時代に営業として活躍する訳であるが、当時のコンピューター1台の価格は数千万~億という企業にとっては非常に高価な製品でありアプリケーション・ソフトウェア構築費用と合わせると二桁億に届く投資となった。しかしながら、世の中の急激な経済成長を支える為の基盤強化は急務となり、特に金融系や卸売業系において業務管理の機械化は急速に展開され、その波に乗りIBMは順調に業績を伸ばした。

日本IBMは米国本社のマニュアル通りの営業向け研修を営業職に徹底的に叩き込み、不適格者や脱落者は営業職にはなれなかった。
先ずは優秀な営業部隊を編成し、現状に甘える事なく常に新たなスキルや反復習得させる努力も怠らなかった。又、一部の優秀な営業職には米国本社における、更に厳しい研修を受講させ、IBMウェイを洗脳させた。

当時、国内メーカーは唯一、日立製作所がビジネス的にIBMに追随していたが、それはあくまでも技術的な側面であり、営業面では比較にもならなかったようである。
国内メーカーは国策的な政策に擁護され、日本IBMの営業活動に比較すると、かなり容易なビジネスを展開していた。
当時の営業職は、見込み客の現行業務の課題点を洗出し、機械化する事により、生産性が飛躍的に向上し、ひいてはコスト低減に役立つという投資対効果を前面に押し出し、現場担当者、その上司、役員、と攻め抜いていった。

当時、IBMでは個々の営業職に顧客のパワーストラクチャーと呼ばれる相関図を作成させ、誰がキーマンで、決定権を持っているか等を調査して戦略的な営業活動や、時には接待攻勢をかけて、国産勢と対抗した。
日本は経済成長の波に乗り、業務のトランザクションは年々増加を続け、人海戦術ではもはや限界があった、商業計算機に目を向け始めた企業は数多く、前述した自動車業界に似た購買意欲旺盛な消費市場が存在した、と同じように多くの大手企業は機械化を模索し始めた。

また、営業職の活動を側面から支援する為に米国流マーケティング活動が明確化され始めた。営業活動の基本は「足で稼ぐ」という表現のとおり、多くの見込み客を訪問し、自社製品を売り込むスタイルが一般的であったが、IBMでは戦略的なマーケティング手法を取り入れ、「足で稼ぐ」非効率な営業方法ではなく、あらかじめ見込み客を発掘し、その見込み客に対して提案活動を集中するという効率を求めた営業スタイルを取り入れたのである。
多くのセミナーを主催し始めたのもこの頃である。

加えてIBMでは前述したとおり、営業基礎研修と呼ぶ長期研修があり、その中で企業における課題点の洗い出し方法や、解決策の導き方、お客様に対する接し方、提案内容におけるお客様の反論に対する論理武装、営業活動における様々な手法を習得した営業職がお客様に対峙した。
その際の営業ツールとして提案書(プロポーザル)を事前に準備するのも営業職の大きな仕事のひとつとなり、提案書の良し悪しで商談が左右されると言っても過言でなかった。
良く、日本IBMの社屋は「不夜城」と言われたが、大半はその営業職の提案書作成や見積書作成、の為の残業による賜物である。

この頃のお客様の環境は売る側から表現すると、大きな大きな畑であり、種を撒くには十分過ぎるほどのフィールドであった。また、種の成長も早く、刈り取りにもさほど苦労は無かったが、せっかく育てたお客様を横から奪い取る競合他社との戦いが一つの障壁であったといえよう。

しかしながら、種を撒く作業、育てる作業そのものは非常に大変な作業であった、特にこの頃の営業職はIT系営業=業務コンサルタント的な要素が強く求められ、業務アプリケーションの知識が必須であった。

お客様が課題と感じている業務プロセスに対して、適格なアドバイスや改善策の提案には業務知識が無いと対応できなかった訳である。
しかしながら、業務アプリケーションを一朝一夕に習得するのは至難の業である。それゆえ、IBMでは各業種別に営業職を組織化し、また各組織にはその業種固有の業務ノウハウを熟知したコンサルタントを配置する事によって、営業職の支援をさせる体制を整えた。
営業職も当該業種における基本プロセスを理解し、補足的な観点でコンサルタントに支援を求めた。

前述したとおり、当時、業務機械化を会社の最重要事項として検討開始した大手企業が多く、その総責任者は社長を始めとする役員の場合が大半であった。
結果、IBM営業職が日々対峙し、訴求する相手は必然的に役員クラスが多く、営業職の素養や人望、信頼性は高いものが求められた時代でもあった。

一方で、現在はどうかというと、業務機械化の波は昭和60年代にはピークが過ぎ、大手企業においては基幹業務の機械化はほぼ完了し、それ以降は業務効率、生産性向上の改善へと波が遷移し始める。
この頃には各社で情報システム部署が設けられ、営業職は役員と接する機会より、むしろ担当者や情報システム部門長に対峙するようになる。

昭和40年代の営業職と昭和60年代以降の営業職の一番大きな違いは、提案活動をする企業の窓口が、前者は経営陣、後者はシステム部門と様変わりした事である。
お客様の対応者が経営層から担当部署に変わった事は、営業職そのものを大きく変貌させてしまう結果となる。

むかしは会社の経営基盤の根幹を左右する提案ゆえ、経営層さえ納得すれば商談は完了した、一方現代では主に情報システム部門や経営企画部門を相手にする商談となり、登場人物も複雑多岐に渡り、その為に営業職も数の確保が優先されるようになり、それとともに質の低下が否めなくなってきた。
また、IT関連製品やサービスを導入する場合、金額の大小に関わらず担当者は決定権を保持している場合は少なく、必ず上層部への稟議プロセスが必要となるが、責任は決定した担当者になる場合が大半であった。

前述したとおり、むかしの商談成立時は会社対会社の構図となり、責任論も一担当者や一営業職のレベルでは無かった。
現代はあくまでも稟議を起案した担当者が最終的に多くの責任を負う事となり、多くの場合、キーマンとも言えた。

小職が営業時代、心がけていた点は決定した担当者の責任に及ばないようなリスク回避策を徹底する事であった。むかし情報提供は全て営業職であったが、現在のお客様はインターネットの発展により、IT系製品やサービスの情報は営業職から入手するのではなく、先ずはネットから情報を収集する時代となり、営業職には情報保持のアドバンテージが無くなりつつあった為、決定担当者の責務も多大になったのである。

そこで、「買い手」の立場を尊重する、ここにも買い手よしの精神を重要視する対応を求められるのであるが、要はその製品やサービスの採用を決めた担当者の上申稟議書作成のお手伝いから始まり、一度課題が発生した場合は、担当者の立場になり、解決に勤しむ気持ちを保持する必要があるのである。
そこに、「買い手よし」「売り手よし」便利になった仕組みにより「世間よし」の三方よしの構図が実現されれば商談は成立するのである。

ポイント3   営業職はお客様の決定責任者の常に味方であり、
決定責任者のリスク軽減に努め、決定責任者の
負担を取り除く役割に徹する必要がある。

以上、三つの業界のそれぞれの現代営業第一ステージ、第二ステージを説明したが、明確に第二ステージでの営業職の大変さが伺い知る事ができ、三つの業種とも同じ状況が発生した事が判った。

ここで言える事は、明確に環境や状況が様変わりしている点である、恐らく営業職そのものは個人能力の観点ではどのステージも同じだったと推察するが、各々のステージの環境の違いをいち早く察知でき、その対応をしたかどうかで営業職の能力に差ができるのだと言えよう。

この章で重要なのは、何も現代営業第一ステージの営業職は幸運で、第二ステージの営業職は不幸だったという事ではなく、その時代や時期によって多くの環境変化、基盤変化、業態変化、消費者動向変化、等々の大きな変化に対して、自らの立ち位置を明確にして、その時点での「買い手よし」「売り手よし」「世間よし」を実現させる方法や手段を確立する事が必要だという事である。


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